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ATLAS at Anywhere (旧 ATLAS at Osaka)

言霊信仰

算数を勉強する前に論理的な考え方をまず勉強すべきだ、的な内容のエントリーを数日前に書きました。作文にしても情操教育は別の科目(道徳とか?)に譲って、論理的な文章、あるいはある事象を第3者に正確に伝えるための文章を書く練習としての作文をして欲しいということを書きましたが、その話の続きがあります。長くなったので書かないでいたら忘れかけていたのですが、昨日Yさんと晩飯を食べた時の雑談で思い出しました。

話として繋がりがあるかどうか微妙なのですが、日本人が論理的にモノを考えるのが苦手なのは言語構造によるみたいな話をよく聞きます。ドイツ語の「そりゃいいね」という相槌を直訳すると「それは理にかなっている」となることが引き合いに出されたりもします。まあ、それは言語構造とは関係なく、単なる表現の問題なのかもしれませんが、そういう表現が入ってくること自体にドイツ人の思考の方が論理を重んじているのかな、なんていうことを勝手に想像します。

で、ここからの話にはおもいっきり飛躍があるのですが、私は、日本人は言霊信仰が根強いなぁと常々思っています。それが論理的な思考をはばんでいないかな、というのが今日言いたいことです。言葉を介した論理よりも、言葉そのものに意味があると考えている、考えているのではないのだけれど漠然とそう感じているようなとこがないかなぁと思うのです。

論理的な考え方というのとはちょっと違うかもしれませんが、危機管理が苦手なのはまさに言霊教のせいだと思っています。一旦悪いことを口にするとそれが現実になるので悪いことは口に出してはいけない、という暗黙の了解がありますよね。「そんな縁起でもないこと言うな」という言葉をよく耳にします。幾つかの事態を想定してそれに対応して計画を変化させなければならないのに、最悪の事態を想定するということを日本人は凄く嫌うのではないかと感じるんですね。最悪の事態に備えた議論をしようとすると、最悪の事態を説明しなければならず、言霊教者はそれを忌み嫌うがためにそういう議論にならないのではないかと。戦争とか経済危機とか、最悪を想定した議論が必要なところでそれを怠るために、本当に最悪の事態になったときに対応が常に後手に回ってしまうのは言霊のせいではないかと…きちんと考えていたわけではありませんが、漠然と思っていました。

だから何だというわけではありませんが、日本語は、言葉を組み合わせて思考や論理を伝えるというよりも、言葉そのものが独り歩きしているような印象を持っている、ということを書いてみました。Yさんの言葉を借りると、日本語は詩みたいです。


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