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ATLAS at Anywhere (旧 ATLAS at Osaka)

研究の多様性

集団としての方向性を決める場合、考え方の多様性が大切なのかもしれない、みたいなエントリーを数日前に書きました。で、今日言いたいのは、研究、というかもう少し広く学問には多様性が重要なのではないか、ということです。

何をすべきかわりとはっきりわかっている分野、進むべき方向がわかって世界的な競争が繰り広げられている応用科学、あるいは技術開発には一極集中で資本と人間を投入するのはやむを得ませんが、基礎科学の分野で研究の取捨選択をすることは非常に難しいし、危険なのではないかと感じています。自然の真理を探究する学問分野で、その学問の重要性を順位付けするというのは、自然を甘く見た、人間が何でも理解してると勘違いしてる、非常に傲慢な考え方だと思うんですね。いや、もちろん、リソースは有限ですからなんらかの順位付けが必要で、取捨選択しなければならないのは仕方ないのですが、仕方ないからそうするのではなく、単なる効率追及で取捨選択しようとするのは間違いではないかなぁと思うのです。

研究、に限らず勉強もそうですが、すればするほどわからないことが多くなり、研究する、勉強するというのは、人間がいかに自然を理解していないのか、ということがわかるための行動のようなものです。人間が理解してることってホントにちっぽけだなぁとよく呆れ返ります。だから、科学者の信じている(?)真理(というか、人間の理解の枠内で正しいと思っていること)というのは時代とともに変わっています。真理が変わらないのは宗教だと私は思っています。まあ、真理は信じるか信じないかにかかわらず1つあるわけで、科学の場合は正しい理論と呼ぶべきでしょうか。それが大きく変わることがパラダイムシフトなわけですが、過去を振り返るとそういうことが何度も色々な分野で起こっていますよね。天動説→地動説なんていうのはその典型で、例を挙げるとキリがありません。現代の素粒子物理学の指導原理は、量子原理、相対原理、ゲージ原理だと思いますが、もしかするとこれらは間違いかもしれません。

にもかかわらず、その時代のパラダイムの中にいる住人が、そのパラダイムの考え方に基づいて研究・学問の取捨選択をするわけですよね。それってどうなの、と思ってしまうわけです。新しいパラダイムを求めるのがある意味基礎科学の目的なわけですが、今のパラダイムの住人にはどっちの方向に進めば新しいパラダイムがあるのかわかりません。歴史に学ぶと、エポックメーキングな発見って予期せぬところに転がっています。だからこそエポックメーキングなわけですが。ははは。だからこそ、限られたリソースではあってもそのリソースを本当に一極集中させるのではなく、最低限の多様性は持たせておいたほうが学問の世界では健全なのではないかと思う今日このです。

まあ、最初っからパラダイムの中での勝負なら、重要性の順位付けは可能でしょうが、そういう場合でも依然正しい方向を見つけるには考え方の多様性が大切なんでしょうね。


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この記事のコメント

全く同感なのですが、科学が巨大化してくると、多様性をもたせるのもなかなか難しくなりますよね。

これは研究に限らず一般企業でも同じなのですが、多様性といった尺度で測られるような懐の深さが、その分野の将来を決めると思います。

巨大プロジェクトでないとできない研究もあって、それによってその分野の他の研究リソースを圧迫して、結局、多様性を持たせにくくなってしまうのが現状でしょうか。

ある水準を超えるような巨大プロジェクトは、リソース的にそれが属する分野から切り離して、話を進められると多様性も維持できるのですが。

私的には、実は巨大実験でなくても同じ研究ができるのではないか、そのために必要な技術的は何なのか、と常々考えているわけですが、研究者の中でそういうことを考えられる人って、めっきり減ってしまいましたね。
2010-02-01 Mon 09:44 | URL | WB [ 編集]
色々な(このエントリー以外の)コメントありがとうございます。

長くなりますが、一つだけ私見を言わせてください。

> 私的には、実は巨大実験でなくても同じ研究ができるのではないか、そのために必要な技術的は何なのか、と常々考えているわけですが、研究者の中でそういうことを考えられる人って、めっきり減ってしまいましたね。

他の研究ジャンルのことは全くわかりませんが、素粒子実験に限っていえば、
WBさんが上でおっしゃっているようなことが事実なのか私には判断しかねます。
何しろD論を書いてからまだ10年しか経っていないので、研究現場にいる人の
特性の変化を感じるほどこの業界に身を置いていません。

ただ、研究者の特性の変化うんぬんではなく、素粒子物理実験の多様性が
減っている(ように見える)のは事実かもしれません。ですが、その原因は
立ち向かっている壁が現在と昔では大きく違うからではないでしょうか。
20世紀後半1990年くらいまでは、素粒子物理のパラダイムを形成している
段階で、荒っぽく言うと何をやっても色々な発見があり、だからこそ多様な
実験研究を展開できたのではないかと思います。

端的には、我々の議論(高エネルギーなんちゃら委員会みたいな場)で
よく引き合いに出されるのは昔のKaonの実験と今のBの実験の比較です。
昔々Kの実験が盛んだった頃は、説明できない統一的な解釈のできない
物理現象がゴロゴロしていました。ですから、とりあえず色んなことを
やって多様性で勝負しようとするのは普通の発想です。ところが、今、
B実験のアップグレードをしようとしていますが、説明できない物理現象
(実験的な事実)がないのですから(ヒッグスにしても超対称性にしても
理論的なモチベーションで、実験事実の矛盾から来る要請ではありません)、
とりあえず何かやるという発想(=多様性で勝負)で実験をやることは
できません。もちろん無限のリソースがあれば別ですが。

例えるなら、多様性で勝負するというのは、アリだかミツバチだかが
餌あるいは蜜のある花を探すときと同じ手法ですよね。とにかく数で勝負。
手当たり次第です。どこかに餌がある花がある、未知の研究に値する
物理現象がある、ということがわかっているなら(=Kの時代です)、
こういう手法はアリですが、餌があるか花があるかもわからない現代では
手当たり次第という手法は取りづらいのではないでしょうか。

ご存知かもしれませんが、湯川秀樹が「1つの学問には必ず新しい仮説が
どんどん生まれるロマンチックな時代と、重箱の隅をつつくような
細かい研究が続くアカデミズムの時代がある」と言っています。1950年代は
素粒子物理にとってはロマンチックな時代でしたが、現在はアカデミズムの
時代なのかな、と自分なりに思っています。ここで一踏ん張りすればまた
ロマンチックな時代がやってくるのではないかと思って(願って?)います。
2010-02-01 Mon 11:37 | URL | ExtraDimension [ 編集]

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