ATLAS at Anywhere (旧 ATLAS at Osaka)

測定器開発論文賞の審査

測定器開発についての修論を審査して,優秀なものを表彰するということが,2,3年前から行われています。今回(=昨年度修士を獲得した人達が対象)の審査ではその審査委員だったのですが,先々週に,その審査会議がありました。私が審査員であることは公表されていることですが,選抜方法についてはおおっぴらに言っていいのかわからないのでここでは書きませんが,とにかく,先々週審査員がテレビ会議で議論をしました。

審査してまず感じたことは,応募論文のできはどれも素晴らしいということです。お世辞抜きで,って,私がお世辞なんか言うことないし,むしろ毒性が高いということは周知の事実だと思いますが,本当にどの論文も修論としては非常に高いクオリティでした。彼らの指導教員がどれくらい頑張ったのかはわかりませんが,これくらいやってくれたら教員の立場として嬉しいというものばかりでした。KOTO,ATLASを問わず,私たちの研究室からもこの賞に応募できるくらい勢いのある修論を書く学生さんが現れて欲しいものです。

そして,審査員が集まっての議論で感じたことは,審査員の分野によらずみなが同じ判断をするときと,違った判断をするときがあるという当たり前の事実です。いっつも言ってますが,こういう審査のときって,得点をつけると審査員の分野によらずかなり強い相関を持ちます。今回もかなり相関がありました。内容的にそうとうかけ離れた分野の論文であっても,全体の得点分布というのはかなり似たものとなります。一方で,得点だけで決めることのできない場合,つまり議論で何かを決めようとすると,そこにはどうしてもポリシーというか,個々の人の持つ研究のバックグラウンドが顔を出します。

顕著だなぁと感じたのは,私たち高エネルギー分野の人間は,測定器開発というからには最先端の技術開発であるということを比較的重視します。つまり,そこら辺にある民生品を使って検出器を組み上げただけでは,仕事として重要なことやクオリティが高いことを理解しても,賞まではあげられないのではないかと考えます。一方,原子核の人達はかなり逆で,革新的な技術に携わっているかどうかよりも,自分たちのやる実験で必要な検出器をきちんと作っているかどうかということを重要視していました。今回の審査でも最後の最後にそれで大もめでした。

もちろん正解のある話ではないですし,こういうイデオロギー対決を仕事のときにするのが私は嫌いなので,あまり強い主張はしなかったのですが,文化というか風土の違いが如実に表れていて非常に興味深かったです。

しかし,実は,こういう違いは高エネルギー分野の中でもかなりあります。ATLASのように巨大な実験だと,あらゆる部分に時代の最先端技術が詰め込まれていますが(多くの研究機関が競いあっているので,そういうものでないと検出器として採用されません),実験の規模が小さくなれば,民生品とまではいきませんが,どうしても既存の技術に頼る部分が大きくなり,大事なのはとにかく動くものを作り上げることとなります。そういう違いがありますので,おのずと何が大切なのかも実験の規模によってきたりするのです。

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