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ATLAS at Anywhere (旧 ATLAS at Osaka)

神の粒子という呼び名

最近の新聞報道等では「ヒッグスは神の粒子とも呼ばれ…」というような説明,あるいは見出しに「神の粒子」という言葉がよく使われていました。が,私は神の粒子という呼び方は非常に嫌いです。生理的,感覚的に受け入れ難いというのもありますし,神とどういう関係があるのかも理解不能です。研究者の仲間内でも,その呼び方どうなのよ,という否定的な意見しか聞いたことありません。というか,多くの人が好きではないと(あくまで仲間内では)意思表示をしています。

試しにググってみたところ,ウィキペディアの説明には,研究者はその呼び方が好きではないという記述が新聞記事へのreferenceつきで載っていました。ついでに,そこで仕入れた知識ですが,もともとは「goddamn particle」だったとか。一応説明しておきますと,レーダーマン(bクォーク,というかΥを見つけたことで有名。ノーベル賞も貰いましたが,その受賞内容はΥではなかったかも)が書いた本のタイトルが「神の粒子」(god particle)で,それが神の粒子と呼ばれる起源になっています。ところがレーダーマンのもともとの提案ではgoddamn particleだったというんですね。それが編集者によりgodに変えられてしまったんだとか…知りませんでした。

そういうわけで,一般への訴求力を考えてか,goddamnがgodに変わってしまったそうですが,最近のマスコミが神の粒子と言う呼び名を使うのもキャッチーだからですよね。内容はともかく,見出しには使いたくなってしまうのでしょう。私自身の好き嫌いを人に押し付けるつもりはないのですが,最近,とある掲示板で気になる書き込みを見ました。どこの誰かは知りませんが,非常に優秀で,その人の書き込みはあらゆることに対して非常に論理的,かつ,知識も莫大。元々物理を学んだそうで,物理に対する理解度もハンパではない人がいるのですが,その人が神の粒子と言う呼び名は物理学者が謙虚さを失ったから,傲慢だからだ,という趣旨のコメントをしていたんですね。確かに素粒子物理学者には傲慢さがあるかもしれないと常々思っていましたが,その呼び名からもそういう印象を受けるという指摘を受け,とりあえず,私も含め現場の研究者はその呼び名を快く感じていないということを表明する気になりました。

ついでに,私がなぜ素粒子物理学者が傲慢,あるいは謙虚さを失っているのではないかと感じてしまうのは,数理的な楽しさ,数学的な美しさばかりを追求し,自然がどういうものであるかを理解しようとする態度が欠如しはじめているのではないかと,ほんのりと(?)感じてしまうからです。実験データを解釈するためには,実験屋,理論屋双方に地道な努力が要求されます。でも,日の目を見るというか,人気なのは,数学的に面白いモデル関連の研究ばかりです。地味な研究は,研究者に対しても訴求力がありませんし,予算獲得という意味でも不利なのかもしれません。だから,という理由で数理的に面白い研究ばかりがもてはやされる分野なのだとしたら,将来に不安を感じてしまいます。

それから,常々言ってますが,自然を記述するために私たちは数学を使っています。たとえば対称性。素粒子物理では非常に重要な概念ですが,そういう数学的な概念が自然を説明するのにピッタリというのは凄く不思議です。真実は逆で,色んな数学的な概念から自然の法則を描くのに必要なものを拝借してきているだけなのかもしれません。ですが,必ずしも(今存在する)数学的な概念で自然を理解できるという保証はないわけです。いや,究極的には人類には理解できないことに挑んでいるのかもしれないわけです。素粒子物理学以外なんて,最初からそういう態度なわけですよね。多体問題なんて解けないことを承知で,でもこう考えるとうまく説明できるよ,というモデルを作ってるわけですよね(?)。ところが,素粒子物理では全てを説明する究極の理論を探してる,と平気で言ってしまいます。もちろん目指すところはそこなので,そう言わざるを得ません。それが他の学問との大きな違いとも思います。ただ「平気で」言っちゃうのは,謙虚さを失っているというか,冷静さを欠いているというか,洗脳されているというか,どう言ったらいいのか難しいのですが,ちょっとどうなのよ,と思ってしまいます。

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